2008/06/24
タロット研究室 ヴィスコンティ版 その4



ヴィスコンティ版を描いた画家は誰なのか?
The Artists of Visconti Sforza Tarocchi
作成者の推定について
The Artists

 ヴィスコンティ・スフォルツァのタロットカードの画家たちを特定するために多くの試みがなされて来ました。未完成の74枚のピェールポント・モルガン・ベルガモ・パック、67枚のキャリー・イェール・パック、そしてもしかすると、48枚のブレラ・ギャラリー・パックなどは、同じ画家の手によって描画された可能性があります。ただし、ベルガモ・パックの6枚の消失した札に置き換えられたカードは除く。)
 何年もの間、その芸術家はアントニオ・シコグナラ(Antonio Cicognara)であると考えられ、十九世紀においては、彼の子孫の一人により、唯一この見解は持ち上げられてきました。しかし、現在、学者たちは異論を唱え、画家はスフォルツァ家から多数の依頼を受け、寵愛されていたクレモナ在住のボニファシオ・ベンボ(Bonifacio Bembo、推定1420年)であると主張するようになっています。研究家・ガートルードゥ・モークレィ(Gertrude Moakley)は、ヴィスコンティ・スフォルツァ家にのために、ボニファシオ・ベンボが描いたタロットカードにおいて、いわゆる「シコグナラの混同」を明確にするための広範な調査を行いました。


和訳をさせていただいたページURL http://www.tarothermit.com/moakley1.htm

モークレイ 101

パート1: 序

ガートルード・モークレイは、図書館の司書をしていた。彼女がヴィスコンティ-スフォルツァ・タロット・カードに関心を持ったのは、これによって、調べものの道具としての図書館の有用性を試せると思ったからである。彼女は、同カードや、そこに含まれるシンボリズムについて、過去の研究を探し出すことは難しくないだろうと考えた。(ヴィスコンティ-スフォルツァ・カードは、豪華な手描きのデッキで、美術館の所蔵品になっている。現存する最古のタロット・デッキの一つである。)もちろん、彼女に分かったことは、これまで、このような問題を扱う真面目な研究がなかったということだ。そこで彼女は、自ら同カードの研究に乗り出すことになる。

彼女の研究をまとめたこの本は、1966年に出版された。これは、タロットの歴史を扱う他の研究(オニール・ダメット/Dummett、O'Neillなど)の出版よりも、ずっと前だ。このことに留意すべきである。なぜなら、モークレイがこの本を執筆していた時、ライバルは誰もいなかったのだから。彼女が論破すべき、歴史的に説得力のある「タロットの起源についての学説」など、どこにもなかったのだ。

前置きの後、この本は、「Undocumented Prelude(文書化されない序)」で始まる。これは、ムードを決定し、内容について、読者にどんな感じかをつかんでもらうためのものだ。モークレイは我々に、15世紀のミラノで行われている祭りのパレードを思い浮かべるよう求める。フランチェスコ・スフォルツァ公爵とその奥方、ビアンカ・マリア・ヴィスコンティも列席している。この想像上のパレードで、我々は、このタロット・カードに描かれた多くの人物と出会うのだ。魔術師(Bagatino)は、カーニバル・キングである。

赤い衣装をまとい、やや道化的な彼が、このパレードを司る。彼が疑似処刑されることで、カーニバルが終わり、レント(受難節)が始まったことが示されるのだ。白いボロを身にまとい、髪には羽飾りをつけた愚者は、レントを擬人化したものだ。彼は、このパレードに、決まった居場所を持たないが、あらゆる所に現れ、機知に富んだ言葉で、人々に、カーニバルの終わりが近いことを思い出させる。

「パレードの山車」の一つは、トライアンフ(勝利)の戦車だ。一組の恋人たちに向けて、キューピッドが矢を構えている。恋人たちの衣装は、公爵とその奥方のものだ。勝ったキューピッドに付き従うのは、名高い捕虜たちだ。皇帝と女帝、教皇と女教皇。教皇と女教皇は、シスター・マンフレダをからかう冗談を言うチャンスを愚者(キング・レント)に与えている。異教のGuglielmiteによって教皇に選ばれた、レディー・ビアンカの親族だ。基本四徳のうちの二つ、テンペランス(節制)とフォーティチュード(力)もキューピッドに付き従っている。フォーティチュードは、異例のことだが、男性として描かれている。これによって、彼の持つスタッフ(棒)とテンペランスのカップ(杯)のシンボリズムが、猥褻なユーモアを帯びることになる。カップとスタッフを持った従僕たちの集団が、これに付き従う。

次に来るのは運命だ。どうやら彼女に捕らえられたのは、彼女の輪に縛り付けられた4人の人物だけのようだ。そして、さらに従僕たち。ここでは、従僕たちが持つのは、プルーデンス(賢慮)のシンボルであるコインだ。次に来るのは死神。ファーザー・タイム(隠者)と悪魔がそれに付き添う。悪魔は、炎を上げる地獄の入口(塔)の傍らに立っている。吊るされた男は、絞首台の上の曲芸師のように見える。彼は、教皇によって裏切り者と非難されている公爵の父親について、皮肉を言っている。

最後のトライアンフは、永遠のトライアンフである。これに付き添うのは、世界のカードに見られるように、正義、太陽、月、星、そして、テトラモーフの4つの生き物。車の中央では、神が王位に就こうとしている。ラッパを吹き鳴らす天使たちがそれに付き従がう。

モークレイはこのちょっとした想像を、次のようなコメントで終えている。すなわち、カーニバルの終わり、そしてレントの始まりには、焚き火がたかれ、人々は、カーニバルの登場人物が多く描かれたプレイング・カードを、火の中に投げ入れたというのである。これは、怠惰な娯楽を後悔しているとのしるしであった。

後の章では、モークレイは、カードを一枚ずつ順に取り上げて、彼女が考え、証拠によっても認められた関連について、書き記している。しかし、それぞれのカードについて考える前に、この想像のパレードから、いくつか、興味深い点が浮かび上がってくる。

一体何を示唆しようとしたのだろう? パレードの光景を想像させたのは、タロット・カードに描かれた人物たちが、当時は生きたシンボルであり、タロット以外の大衆文化においても、遭遇するかもしれないものであったことを示すためだけだったのか? それとも、彼女はもっと具体的な関連について示そうとしているのか? すなわち、タロット・カードは、カーニバルのパレードを、逐一、描写したものなのか? タロットのシンボリズムの背景にあるかもしれないものを理解したいと思う者にとって、これは、極めて重要な問いである。しかし、モークレイは、この問いに十分、明快な答えを与えてくれない。おそらく、このことこそ、今日においても、モークレイの理論の「正しさ」について、タロット・ファンの間に、多くの異論がある理由なのだろう。

タロットの「ローカル(地元の)・ユーモア」的な部分についても、この本全体に、似たような曖昧さがつきまとう。女教皇と裏切り者を、ヴィスコンティ、スフォルツァ両家の特定の人物に結び付けるジョークについてもそうだ。もっぱら、ミラノを支配する一族に言及するためだけに、タロットの中にこれらの人物が存在するのだと考えるべきなのかどうか、はっきりしないのである。もしそうなら、(私が思うに)モークレイは、タロットがミラノ人の考案であるという立場を擁護するか、あるいは、少なくとも慎重に検討しなければならない。しかし、彼女は、そのようなことをしていない。彼女が明らかにしようとしているのは、タロット・デッキ全体の起源なのか? それとも、単に、ヴィスコンティ-スフォル・カードの起源なのか?

これらの問題が頭に残って離れないせいで、読者として、若干の気持ち悪さを感じることは事実だが、しかし、風呂の水を捨てようとして、誤って赤ん坊まで流してしまうようなことがあってはならない。この序の要点は、寓意的なトライアンフの一般的なパターンは、タロット・プレイヤーたちにとって、その当時の大衆文化でお馴染みのものだっただろうということだ。教皇や皇帝が愛あるいは死神に打ち負かされたり、あるいは、その他の全ての創造の力を打ち破った最後のトライアンフで、太陽、月、天使が、永遠の神に付き従ったりするのは、15世紀の一般大衆にとって、慣れ親しんだ考え方であったに違いない。ちょうど、20世紀のアメリカ人が、テレビのホームコメディーのありがちなパターンを熟知しているように。タロットのシークエンスとトライアンフ・パレードに、共通するイメージや構造があることは、ほぼ否定できない。


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