タロット研究室
ウェイト版  第4回
「The Pictorial Key to the Tarot」とアーサー・エドワード・ウェイト博士についてのページです。


 今月は、かのアーサー・エドワード・ウェイト博士のお誕生月です。なおかつ、150周年記念でございます。。ごめんなさい、ちょっとタイミングをはずしましたが、気を取り直して!  ウェイト博士のまだ知られざる一面、二面、、にせまって見たいと思います。


  以降、サイトControverscial.Com の 
Arthur Edward Waite のページの完訳です。 
http://www.controverscial.com/Arthur Edward Waite.htm
Written and compiled by George Knowles

 ウェイト博士は、1857年10月2日に、アメリカは、ニューヨークのブルックリン 生まれ、その後イギリスで生活しているほうが長いので、イギリス人として知られているようです。彼の父親のチャールズ・F・ウェイトは、アメリカ商船の船乗りでした。母親のエマ・ラヴェルは、東インド貿易会社関連の裕福なロンドンの商人の娘でした。2人が結婚して、1年後に生まれた彼ですが、父親は、コネチカット州とロンドンの間を航海中に死亡。(事故か病気だったのでしょうか。)それが、1858年9月29 日でした。その後、ウェイト博士は、母親に連れられて、ロンドンで生活することになったのです。その際、母エマのお腹の中にはウェイトの妹がいたのでした。


 また、一般に知られていないことですが、当時父親と母親は、正式な入籍を果たしていなかったのです。ウェイト博士とその妹にとって、血のつながった父であるチャールズですが、法的な父親とは認められなくなっており、それについて、母エマの家族が異論を申し立てたようです。実家から追い出されてしまった母は、ロンドンの北西部の郊外へ移り、細々と兄妹を育てます。こういった経緯があり、エマは、ローマカトリック教会に入信することになったと伝えられています。


 その後エマは、ロンドン北部で、セントチャールズ・カレッジ(ベイウォーターのローマカトリック教の学校)の学校で、息子・ウェイトに申し分のない教養をみにつけようと最善を尽くしました。学校を卒業後、ウェイト博士は、
店の店員として働き始めます。そして、その合間に、詩やロマンチックなフィクションを書き出します。多くを執筆活動に費し、健筆家として知られるようになり、彼はすぐにロンドンの様々な出版社と関係ができるよういになります。ウェイト博士の最初の仕事としての出版物は、「天文学への叙情詩‘An Ode to Astronomy’」(1877)。それから、小さな文学雑誌などに多くの詩と物語を発表していきます。さらに、彼は「未知の世界‘The Unknown World’ 」なる小さなマガジンを編集しました。1886年にはレッドウェイ社から、「魔術の神秘、Eliphasレビの著述の要約‘The Mysteries of Magic, a Digest of the writings of Eliphas Levi’」を出版。これが、博士の最初のオカルト・ワークと言えるでしょう。


 文豪への道をひた走るかのように見えたウェイト博士でしたが、この出版活動中、1874年に妹が死去。この頃から、心霊世界や魔術に引きつけられるようになったことが知られています。そうして、ローマカトリック教会への信仰心を失っていったのです。しかし、脱会するには至らず、教会の儀式にも関与し続けました。実際に、ウェイト博士自身の儀式構築においては、教会の様式を持ち込んでいます。博士は、より人間の「精神性/スピリチュアリティ」と「隠秘学/オカルティズム」の相互関係を探求するようになります。このきっかけになった心霊研究には、それ程の発見を得られず、後にオカルト・サイエンスの先駆けとも言える神智学協会へも入会しています。ウェイト博士は、神智学の教えに大変魅せられるものがあったのですが、創設者であるH.P.ブラヴァツキー女史の、アンチ・キリスト主義的な傾向に触れ、これがウェイト博士を神智学協会から立ち去らせる強い原動力になったものと考えられています。


 
宗教、心霊、オカルトといわゆる精神世界全般に興味を持ち、探求していった彼には、それらの内の何かひとつに傾倒することができず、同時に、どこでも熱心な信者とは相容れない関係性を築くことにもなったことでしょう。(ここは訳者の見解)


 この頃までに、ウェイト博士は、秘教/エソテリシズムと言われる分野の様々なブランチを研究するため、大英博物館の図書館に通うようになっています。ここで、エリフェス・レビの著述および教えに遭遇し、彼の方向が定まったと言われます。既に多数の詩およびロマンスを書いており公表した経緯もありますが、フィクション作家としての至らなさを認識し、神秘学の歴史およびその教えについての、論評と監修者としての仕事に専念することに決めたのでした。大英博物館で勉強している間、ウェイト博士は、S.L.マクレガー・メイザース(魔術結社「黄金の夜明け団」の創立者の内の1人)の人物などと最初にコンタクトを取りましたが、博士はメイザースのことがあまり好きではなかったように伝えられています。


 1883〜1884頃、ウェイト博士は、エイダ・レイクマン通称「ルカスタ/Lucasta」と呼ばれる女性と結婚し、一女シビル・ウェートをもうけました。その後、1891年1月に、ウェイト博士とルカスタは、黄金の夜明け団の新規参入者のためのイニシエーションに招かれました。儀式はホーニマン博物館の近くにある、マクレガー・メイザースの家の中のステントロッジで執り行われました。しかしながら、ルカスタは熱心ではなく、ウェイト博士の式への出席や関与も散漫でした。ウェイト博士は、常に、オカルト主義者の道ではなく、神秘家の道に好意を抱きました。よって、彼は必ずしもメイザースと見解が全く一致したとは限らず、黄金の夜明け団に幸せを感じませんでした。しかしながら、彼は団に固執し、1892年4月までに4=7階級のフィロソファス/Philosophusに達しています。
およそ1890年頃

 黄金の夜明け団において満たされないまま、ウェイト博士は、1893年に団をいったん離れ、1896年に再び戻っています。1899年には、彼がさらに上級の第2オーダーに上がって、トップへの道を進み始めました。しかしながら、団は衰退の道をたどり、1897年には、ロンドンで団の首領を務めていたウエストスコット博士が辞職を強いられたのでした。そして、フローレンス・ファーなる有名な舞台女優が取って代わります。さらに、パリのメイザースの指導下において、ファーとメイザースとの関係が緊張します。ファーはウエストスコット博士にあった実際的な管理能力を欠いたのでした。ウエストスコット博士が去った後に、第2オーダーの階級の作用の強さや試験制度は衰退し始めました。また、全体のロンドンの団全体が下降の一途を辿りました。

 その一方で、ウェイト博士は、自分の前進のために、フリーメイソンの制度に注目し始めました。1901年9月19日に、彼はWraysburyという土地でルニーメイドロッジ2430番(階級)へ招かれました。また1902年2月10日にセントメリルボーン・ロッジ1305番に上がりました。これは、ウェイト博士にとってよいステップであり、以前は彼の研究に憤慨したグランド・ロッジの影響力のある人々と関わり合いを持つことができました。彼らは、黄金の夜明け団内のハイ・レベルのメンバーたちでもありました。2か月後の1902年4月に、ウェイト博士は、さらにアングリアという地方でSocietas Rosicruciana(S.R.I.A.)というクリスチャン系の組織に参加しました。それは、さらに黄金の夜明け団の主要なメンバーを含むものでした。

 その後、ウェイト博士はより高いレベルにまで彼の探究を進め、1902年5月1日には、メトロポリタン・チャプターの1507番に上がり賛美されるに至ります。ウェイト博士は、あらゆるエソテリシズムの実践的、また伝統的な理論を公にしました。ヘブライのカバラ、聖杯伝説、薔薇十字団の神秘思想、キリスト教神秘主義、フリーメイソンの制度が、「神」に直接触れる道(宗教)に対する抜け道のようなものであるかどうかということを。そして、彼は、各々の伝統はシンボリズムに始まり、シンボリズムに終わるという源流を見出し、それらの正確な解釈こそが精神的な光明に続くであろう隠れた道の発見に結びつくものと確信したのでした。

 1910年にウェイト博士は、ルニーメイドロッジのマスターに任命され、彼は他に追求したい関心事がありましたが、依然忠実なメンバーとして、ロッジに定期的に貢献し、講義や会議に出席し、それは1920年に、彼が、ロンドンからラムズゲートケントへ移り住むまで続きました。その時までに、メイソンたちとの関連は衰退し、他のフラタニティ(兄弟関係)とのメンバーシップは手放しました。しかし、彼は生前ずっと母体であるロッジのメンバーであり続けました。

 1903には、黄金の夜明け団の立ち上げメンバーたちも不和、不祥事により決裂し、そして最後には、それぞれ分離し独自のグループを設立するに至ります。メイザースに忠実で最後まで残った団員は、アルファ・オメガ寺院を結成し、一方で、ウェイト博士は、元のイシス・ウラニア寺院の首領に取って代わります。残りのメンバーの多くは、ウェイト博士のグループに付きました。ウェイト博士は、それを独立改正儀式団/the Order of the Independent and Rectified Riteと改名しました。

およそ1910年頃

 しかしながら、古いグループの多くの人間は、その新体制を好まなかったのです。というのは、ウェイト博士が魔術よりも、神秘主義を研究の対象としたためです。これは、別の分裂、ロバート・ウィリアム博士、ジョン・ウィリアム・イニスを含む魔術志向の強いメンバーたちが「ステラマテューティナ(暁の星団)/Order of the Stella Matutina」を形成するための団結を促しました。新体制は数年間維持されましたが、反体派によって突き上げられ続け、ウェイト博士が独立改正儀式団を解体した1914年以降も、さらなる不和騒動が展開されたのでした。

 ウェイト博士は翌年、それを(
おそらく彼独自の小団体である)薔薇十字団の会員章に置き換え、他のあらゆる団体から独立した組織であることを、その規約の中で明らかにしました。そのひとつに、こう述べられています。「薔薇十字団の会員はオカルト、もしくは、心霊研究における研究に一切の関係を持ちません。私達は力の探究ではなく、人間の美徳の探究をするのです。」また、別の文書では次のように述べました:「独立改正儀式団とその従属団体と、ステラマテューティナとその従属団体は、現在の活動において、薔薇十字団との交流、訪問、結託することはできない。」


薔薇十字団についての参考ホームページ「オカルトの部屋」
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/mason/ougonbarajuuji.htm
およそ1921年頃

 黄金の夜明け団の消滅の後に作成された他の多くの党派も、薔薇十字団同様、徐々にその勢いを失い、徐々に歴史の影に消えていきました。薔薇十字団が消滅した後、ウェイト博士とルカスタへとの結婚生活がかんばしくなくなったと噂され、博士は彼の秘書と2人でロンドンのPenywern Roadという場所で暮らしました。秘書の女性は、イシス・ウラニア寺院の会員であったこと、「用心深くあれ」をモットーにしたことなどがわかり、この人物が、ウェイト博士に関する噂について、最も当てはまるような説を世間に行き渡らせたようです。彼女は、彼の手となり足となり貢献し、苦難の時をずっと支えてきたようです。1920年に、ウェイト博士は、彼の著述に専念するためにロンドンからケントのラムズゲートへ移り住みました。1924年のルカスタの死後、博士は、メアリー・B・スコフィールド(ウナ・サルス)と結婚しました。


およそ1932年頃

 ウェイト博士は1942年に死去。最期の数年を費やしたケントのBishopsbourneの境内に埋められました。博士のフリーメイソンの制度や儀式、講義などに関する歴史的、多産的な貢献にもかかわらず、フリーメイソン年代記(vol. 135, p. 178, 6 June 1942)年において短いたった3つのパラグラフによる略歴付きの死亡記事が掲載されただけでした。それによれば、ウェイト博士は、フリーメイソンに所属する詩人であり作家であると単に記されたのでした。ウェイト博士の墓は、今となっては厚く生い茂った植物に覆われて、よく見えない。それは、彼の名声に覆い被さった暗影を表しているかのようです。

 70冊以上の書籍、講義、儀式と多くのジャーナルおよびマガジンへの貢献をした多作の作家、ウェイト博士の永遠なる遺産が、彼のそういった著述ではなく、彼が創造したライダー・ウェイト・タロットを通じて広がっています。1909年に、黄金の夜明け団内でイシスウラニア寺院の本部が再構成された時、博士がちょうど著作「タロットへの鍵/‘The Key to the Tarot’」を書き上げたところで、それに図柄を提供してくれる人物を必要としていました。彼のメンバーのひとりが、熟練芸術家パミラ・コールマン・スミスであり、博士は彼女を採用し、美しいひとつのデッキとなるよう彼女にデザインを指図しました。主な改革は、大アルカナだけではなく、小アルカナまで、すべての札の絵柄で行われ、また、占術的な意味合いの示唆を絵柄に取り入れた点にもありました。

 
博士は、また、ポピュラーとなったケルト十字展開法を作り出し、その後黄金の夜明け団の第1オーダーにおいて、伝授されました(※)。著述および学究的な追求の中で、博士は、トマス・ヴォーンの訳書のような、神秘的・錬金術的な作品を再考するようなものと同様、エリファス・レビやパピュ博士の訳書も世に出しました。
博士の主な作品には、次のものが含まれます。
(下記原文のまま)

The Mysteries of Magic (1886)

Handbook of Cartomancy (1889)

The Occult Sciences (Keagan Paul ? 1891)

Devil-Worship in France (Redway 1896)

Louis Claude de Saint-Martin (1901)

Studies in Mysticism (1906)

A New Encyclopaedia of Freemasonry (1921)

Emblematic Freemasonry (1925)

The Secret Tradition in Freemasonry (1937)

His autobiographical Shadows of Life and Thought (1938)

その他の書籍 include: Book of Ceremonial Magic, Book of the Holy Grail, Quest of the Golden Stairs, Belle and the Dragon, Unknown World, Works of Thomas Vaughan, The Way of Divine Union, Strange Houses of Sleep, Azoth or the Star in the East, Book of Spells, Collected Poems of Arthur Edward Waite, The Golden Dawn Tarot, Hermetic and Alchemical Writings of Paracelsus, Hidden Church of the Holy Grail, Raymond Lully: Illuminated Doctor, Alchemist and Christian Mystic, Secret Doctrine in Israel, Three Famous Mystics, Turba Philosophorum, Understanding the Tarot Deck, and The Way of Divine Union.


 最後に、ウェイト博士は生涯において、彼の同年代の人間に対し、軽べつ的で批判的な面がありましたが、貧しい生活背景と貧弱な教育により発達させてしまったものなのでしょう。彼は確かに生きている間中、誰かしらを悩ませていました。しかし、それは多くの偉人の特性ではありませんか?
 フリーメイソンの制度に彼の生活の多くを捧げてきたにもかかわらず、イギリスでは、どのメイソンたちもそのように見なしませんでした。しかし、アメリカでは違います。ウェイト博士の著述、講義および書簡が集められ保存され、アメリカのアイオワ・グランドロッジ図書館に世の中の繁栄のために格納されています。(了)



 
さて、いかがでしたでしょうか。何分、ウェイト博士の10月のお誕生日イベントとして、新規ページを作成しようと思い立ったのがほんの数日前で、本ページを作成するには5時間ぐらいしか残されておりませんでした。今年は150周年記念だというのに! お粗末な訳出になってしまったところもございますが、、どうか寛容にお受け止め下さい。魔術結社についてやその位階についての表現など、より的確な訳文をご提供いただければ幸いでございます。
※赤字で示されました文書
  博士は、また、ポピュラーとなったケルト十字展開法を作り出し、その後黄金の夜明け団の第1オーダーにおいて、伝授されました。

 こちらにつきましては、原文サイト上の情報であり、もっと信憑性の高い情報が求められるところかもしれません。ただ、ウェイト博士が、大きな団体、黄金の夜明け団、フリーメイソンにおける儀式や教義の体系に多大な貢献をしたという事実は、これは他のサイト、国内の神秘学研究者や、今回訳出にあたりご協力いただいた神智学協会ニッポン・ロッジの方々からも聞くことができました客観的事実でございます。精神世界領域のどこに行っても、ウェイト博士の存在を知らない人はいない、と言ったところでしょうか。中には、博士は、ウェイト版タロットの作者として知られているが、神秘・オカルト関係の著作物のほうが圧倒的に多いのに!と仰る方などもおり、
我がタロットマスターズワールドとしては、今後もまだまだ、ウェイト博士の実像にせまり、著作物などをできる限り紹介してゆきたい所存であります。

2007/10更新

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ウェイト版原書
「THE PICTORIAL KEY TO THE TAROT」
By Arthur Edward Waite
Illustrations By Pamela Colman Smith.
[1911]
和訳バージョン掲載中

参考URL
http://www.sacred-texts.com/tarot/pkt/

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