Form U.S.Games Systems Inc.
Pamela Colman Smith: The Untold Story
こちらはタロットではなく、書籍です。
あのウェイト版を描いた作者の物語です。
ウェイト版が一種主流となる本サイトで
その作者についての書籍を紹介するのもわるくはないでしょう。
Pamela Colman Smith: The Untold Story/パメラ・コールマン・スミス・その知られざる物語
商品情報
・言語: 英語
・出版社:U.S.Games.Inc.
・著者:Stuart R. Kaplan,
・ISBN: 9781572819122
・サイズ: 大型ハードカバー版、約19x 26mm
著者は、タロット史家でありまたウェイト版の版元であるU.S.Games.Inc.のCEOにして、タロット関連の著書最多で知られるステュアート・カプラン/Stuart R. Kaplan氏を筆頭に、さらに3人の研究家が名を連ねる共著。
それぞれが専門的にパメラ女史のアートと歴史を調査・分析しているという壮大な作品。パメラ関連の書籍でボリュームにおいてこれを優る書籍はありません。
パメラ・コールマン・スミス(1878-1951)と言えば、代表作・ウェイト版でおなじみの女流作画家ですが、ウェイト版以外はパッとしなかった無名の画家、アーサー・E・ウェイトの愛人でもあった、レズビアン説等々、これまで各所でよく解明されていないままにイメージが先行しがちな画家でもありました。
徐々に彼女の真の姿が、詩人や執筆家でもあり、ステージや衣装のデザインも手掛けながら、民族学の研究にも勤しみ、女性の参政権を求める社会活動家としての姿が浮き彫りになってきています。個人出版社として様々な著作物を刊行するなど活躍の幅は多岐にわたり、単にウェイト版を描いた画家と言われるにとどまる人物ではありません。
左は本書の本書の内表紙で、イギリスNatural Trust所蔵のコスチュームデザイン。本書には今となっては文化的資産とも言われているパメラ女史の民俗学研究やタロットアート以外の400点以上ものイラストが一挙に公開されています。
PAMELA'S LIFE
パメラの生き方
(本書より一部抜粋・翻訳)
パメラは20冊以上の本と多くの雑誌向けの記事などに挿し絵を描き、2点のジャマイカ※民話を書いています。ジャック・イエーツ/Jack Yeats※とともに A BroadSheet(1902-1903)を共同編集し、 彼女自身が単独で編集したThe GreenSheaf(1903-1904 )もあります。そこではパメラ本人も含め女性作家に焦点を当てています。出版活動における彼女のこの冒険は、事実上男性ばかりの出版社を扱う際の彼女のフラストレーションの反応でもあり、また計算されたビジネスでもあるのでしょう。彼女はしばしば出版社を「豚(pig)」呼ばわりして、仕事をとりそこねたことや受け取るはずだと思っていたロイヤルティについて不満を発してもいます。
劇場業界でもアクティブで、パメラ自身がミニチュア・シアターを上演しています。ライシーアム・シアター・カンパニーとともに旅回りをして、いくつかの演目のセットと衣装デザインにも貢献し、公的なリサイタルとしてジャマイカの民話と詩の数々を公演しています。
※Jack Butler Yeats:ジャック・バトラー・イェーツ(1871年8月29日~1957年3月28日)はアイルランド人アーティスト、オリンピックメダリスト。ウィリアム・バトラー(W・B)・イェーツは彼の弟。Wikipedia情報
ジャマイカ/Jamaica:中央アメリカ、カリブ海の大アンティル諸島に位置する立憲君主制国家であり、英連邦王国の一国である。首都はキングストン。パメラが幼少期を過ごし、また母親の生地でもあり彼女にとって重要な土地。
1912 指人形シアターを公演するパメラ
パメラという人は抑制しがたいスピリットなのです。それは彼女のニックネーム"ピクシー※"と、彼女の時代に求められていた女性としてのスタンダードなあり方から逸脱している点とに反映されています。キャリアを追求し、結婚したり子供をもつことはありませんでしたが、代わりに、似たような考えの女友だちと仲間たちに囲まれながら暮らしました。生地イギリスのロンドン、そしてニューヨークでも、西インドに伝わるアナンシ物語※のストーリーテラーを務め、アイルランドとジャマイカの民話を融合させるように自ら別個に神話を創り上げます。それらは自由と恐れを知らない独立の精神を祝福する物語でした。
彼女の作品の特徴は 多くを見れば明らかであり、特に彼女の2つの出版物、ジャマイカ民話の『Annancy Stories(1899)』と『Chim-Chim(1905)』において顕著です。後者は彼女自身が立ち上げたグリーン・シーフ/Green Sheaf出版により刊行されています。女性のキャラクターの作用が強調されている伝統的な物語が掲載されています。
パメラは人生を通して、彼女を理解せずに既存の性別、階級、人種で彼女をカテゴライズしようと苦心した人々と確執がありました。
※
ピクシー :イングランドのコーンウォールなど南西部諸州の民間伝承に登場する妖精の一種。 普段は透明で人間には見えないが、頭に四葉のクローバーを乗せると姿を見られるようになる。 身長20cmほどの小人で、赤い髪の毛、上に反った鼻をしていえる。語源は、悪戯好きな妖精のパックに愛称語尾syがついたパクシー。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
※アナンシ物語:(英: Anansi)は、西アフリカの伝承で最も重要な登場人物のひとり。ニャメ(英語版)(父で天空神)の名代として活躍する文化英雄。アナンシは、雨をもたらして火災を消し止めるといった役割を果たす。母はアサセ・ヤ(英語版、スロベニア語版)。アナンシには子も複数いる。妻の最も一般的な呼び名はアソである(若干の神話においては「ミス・アナンシ」あるいは「ミストレス・アナンシ」として知られる)。アナンシの姿は、蜘蛛として、または人間として、さらにはその両方の形をとりうるものとしても描かれる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1899年 、21歳のときにパメラは父親とともに、後のノーベル文学賞作家ウィリアム・バトラー・イェーツ(W.B.イェーツ William Butler Yeats Wikipedia情報)とその父親ジョン・イェーツを訪ねています。その際ジョンはたとえば氷を浮かべた水を飲むパメラを見て、 「まるで日本人のようだ」と言っています。
(とのことですが、当時まだそういう習慣がなかったのでしょう。日本はきわめて雨量の多い水資源豊富な国であり、水がきれいな国(水道水を飲める)ということにも由来するでしょう)
ジョンには生まれが定かではない土着のアメリカ人、特に彼が自分よりも下層階級だと見なした人間に対する偏見があったことが記されています。
日本人のようだと言われたパメラは「そんなに人が思うほどではない」と述べながらも、着物姿の自身を風刺的に描いて雑誌に発表したりもしている。彼女の刺激的なユーモアだと語られています。
Courtesy@National Trust,UK
Jamaican Folktale Performances
ジャマイカ民話の語り部パフォーマーパメラ自身が表現者としての功績を多々残しており、ジャマイカ民話の語り部としてのパフォーマンスを世界各地で繰り広げてきた人物でもあるのです。ジャマイカ民話「アナンシ物語」は、日本の民話と同様、子供に教育の一環として読み聞かせながら古くから語り継がれてきたその物語に彼女は生涯こだわってきたようです。
彼女がイギリスとアメリカを行き来しながら、ニューヨークで駆け出しのアーティストとして初めて「アナンシ物語」を刊行したのが1900年。同年春より「アナンシ物語」の語り部としての活動がスタートしています。
1904年10月、アメリカの婦人雑誌は、パメラのロンドン・パフォーマンスに絶賛の評を捧げ、聴衆を魅了する彼女の床に座るスタイル、炎のような衣装、彼女の作品すべてを取り上げています。
始めは彼女のサロンで、やがてロンドンの舞台で、1907年と1909年にはニューヨーク市マンハッタン区 にも活動を広げ、1907年1月には、マンハッタンの高級ホテルで知られるウォルドルフ=アストリア(The Waldorf-Astoria)のエンターテイメントクラブの指名でイタリア大使、デ・プランシュ男爵を称えるレセプションにまで出演しました。
下記は各地の雑誌で取り上げられたパメラの記事&写真です。
伝承民話は「昔々・・」ではじまりますが、パメラはいつも「ビクトリア女王が私たちに君臨するよりもずっともっとそれ以前に・・」と語り始めるのが特徴でした。当時の英国帝国主義の覇権の前に、ジャマイカのイギリス植民地時代のスタンスを強調することによって、聴衆の心の時間軸をとらえたのですね。一見単純な物語の"異なる本質"を強調しようとしたのです。
語り部活動に熱心だったのは、この彼女のベンチャーがいくばくでも経済的な足しになることを望んでいたからだということも記載されています。パメラは後に自身で立ち上げた小出版社が傾いてしまったり、執筆の報酬を受け取りそこねるなど少々金銭感覚にはあやういところも見受けられます。没後は、彼女の遺産がすべて彼女が残した借金で相殺されてしまったとも記載されています。
そんなパメラですが、当時の女性参政権運動にも大いに力を注いでいます。
女性参政権運動
ちょうどウェイト版の作画を担当した年、1909年の彼女の作品です。"A Bird in the Hand" 手の中の鳥。こちらのポスターは、1910年第一回目の調停法案のためにパメラがデザインしたポスター、そしてポストカードもあったとのこと。少額の作画料で若干パメラが利用されたニュアンスで書籍の中では語られています。
ポスターは、当時のイギリス首相アスキスと次期首相候補でもあった大蔵大臣ロイド・ジョージが、薄暗い投機的な未来に対し、女性参政権を取り付けることについて述べたことをほのめかすもの。
パメラ特有の実用的なユーモアのセンスで、この二羽の「あざけり鳥」の不適切な公約になびかずに、女性は女性で調停法案を押し進めましょうと呼びかけています。
調停法案には25万人以上の署名が集まり、当時の首相アスキスは議会に与けることに合意しましたが、総選挙が介入し、議会は開催されずじまいでした。
ちなみに調停法案はその後、1911年と1912年に提出され、イギリスとアイルランドで女性の投票権が約1,000,500人の富裕層クラスと一部の既婚女性に拡大しました。女性参政権運動が広がり、1913年にはサフラジスト※によって、法案は完全に書き換える必要があると決定されるに至っています。
サフラジスト※wiki情報
サフラジェット (英語: Suffragettes)は19世紀末から20世紀初頭にかけて、「参政権」(英語: Suffrage)、つまり選挙で投票する権利を女性にも与えるよう主張する女性団体のメンバーだった人々を指す。イギリスではとりわけ女性政治社会連合 (Women's Social and Political Union、 WSPU)のメンバーのような好戦的な人々を指すことが多い。サフラジスト(Suffragist)は女性参政権運動のメンバーを指すもっと一般的な単語である。
パメラは女性参政権の活動には大いに肩入れし、ポスターに加えて署名なしでポスターや手形をサフラジェットに寄付したようです。
民話のパフォーマンスと政治活動に携わるかたわら、パメラが引き受けたのがウェイト版の作画でした。
PAMELA'S Rider-Waite Tarot Deck
パメラが描いたライダー・ウェイト・タロット
ここからは井上が本文の内容をふまえてお届けしてまいります。
190l年、パメラは儀式魔術の神秘性に魅せられ、 イギリスの魔術結社「黄金の夜明け団/GD=Golden Dawn」のイシス・ウラニア寺院に新規参入を果たします。W.B.イエーツが代表を務めており、多分に彼の影響を受けていることを推察するところですが、同年彼は脱退しています。
パメラはここで初めてアーサー・エドワード・ウェイト(A.E.ウェイト) に出会います。以降、パメラの団における等級は新参者レベルからそれより上へと昇級することはありませんでした。
というのはもう当時A.E.ウェイト自身さえもGD にはへきえきとしていたのです。実際には一度もうGDを辞めており、再び出戻っていたところだったのですが、ウェイトはこの1901年にはフリーメーソン、1902年にはバラ十字団にも入会しており、彼自身の魂がさまよえる時を過ごしてもいたよう。
1903年には結局、「こんな頭がいかれた薬中連中とのお付き合いはご無理ごもっともでございます」とGDから遠ざかり独自の結社を設立するウェイトに、またパメラも続いたのでした。
ウェイトは以前からタロット研究に勤しみ、独自のカード制作の構想を練り着々と進行し続け。彼の念願は、40枚の数札すべてに絵の画像を追加すること。彼が後の1938年に自伝『命と思考の影(Shadows of Life and Thought)』に記しているように、彼はタロットの作画家として出会ってすぐにパメラを採用することを考えています。
ウェイトはパメラに出会い、こう語っています。
「黄金の夜明けに漂流し、儀式魔術愛好家でもあり、また想像力豊かで少々逸脱した芸術家、それがパメラ・コルマン・スミスです。適切な指導の下で、芸術の世界でも魅力あるタロットを作り出し、シンボルの背後にある重要性を伝える、そんなタロットを生み出すことができるドラフトウーマンがいる。何世代にも渡って単なる占い目的のために生産されてきたタロットだけれども、使う人々がそれまで夢見ていたものより、もっと別の建設的な可能性というものが私たちの中に今感じられてきた」。
ウェイトはパメラをスピリチュアル・アーティストと見なし高く評価していましたが果たして新参者ではある彼女がシンボリズムをどれだけ理解しているのか? そこに議論の余地があることは否めませんでした。よって主に小アルカナの担当として、彼女には自由に存分に、腕を振るってもらうに至るのでした。あくまでもアルカナの総指揮者はウェイトであり、ことに大アルカナの絵柄を決定したのはウェイト自身です。伝統を踏襲し、エキセントリックな趣向は皆無ながら、その分、小アルカナにはパメラの情熱がそこここに弾け飛んでいる。絶妙なコラボレーションとはこのことです。
1907年にかのイタリア発1491年のソラ・ブスカ版、現存する唯一の78枚がそろったその古いタロットが大英博物館に展示されるや否や、パメラはそのデザインを大いに参考にし数札に取り入れました。
2年後の1909年11月、パメラは78枚のデザインを完成。
翌12月にはウィリアム・ライダー&サン・カンパニーにより、ロンドンで販売されるに至ります。
その後 1910年には、パピュ(ジェラール・エンコース)のタロットとして知られるボヘミアン・タロット1892版の再販の際に、カバー・デザインにもパメラ女史は貢献しています。
※画像をやまだまさゆきさんのHPより拝借☆彡https://tarotnavi.com/library/arthur-edward-waite/
ウェイト版78枚を仕上げた1909年のパメラは、何回目かのニューヨーク行きを果たしており、「プラットアートクラブ」にて「魔法のスペクタクル」と題しアートにおける想像力の重要性をレクチャーもしています。
彼女はそこでイマジネーションの塊のような絵画の数々を、フランス、イタリア、中国、そして日本の図像をも紹介しています。彼女が、ソラ・ブスカ版を「ただの参考絵画」として扱い特段の興味を持たなかったというような説もあるようですが、パメラがブスカ版を彼女なりにつかむために苦心したことが伝えられています。その構図やデッサンの奥深さに神妙に見入り、瞑想し、彼女の世界観でウェイト版小アルカナに恐れ多くも取り掛かっていた情景が思い浮かびます。英国初、お目見えしたソラ・ブスカ版の、彼女が最高にして最大の観客であったのではないでしょうか。もっとも大英博物館所蔵の版はレプリカですが。
1900年代初頭にパメラ・コールマン・スミスが描いたウェイト版が、なぜ今もまだ世界各国の人々を魅了し続けているのか、この書籍が全身で物語ってくれることでしょう。
パメラ女史がなぜ、ウェイトにより見込まれ、たいした画料もないままにこの仕事を引き受けたのか、、うんちくよりも!
実際に彼女のアートに触れ、これらの絵画を描いた人の人生に触れた上で、ウェイト版を眺めてみて、いただければ。それで本望です。(続きは勉強会にて)
日本タロット占術振興会ブックスにて好評発売中★お気軽に!